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2009年11月27日

●鉄の哲人

先日、以前から決めていたインタビューの為に、今年度から多摩美術大学の教授となられた多和圭三さんを訪ねた。そう、鉄を叩いて何十年、という日本を代表する「鉄」の作家のひとりである。八王子から大学直行のバスに揺られ、横浜へ向かう16号を20分程。丘の上に聳える天空都市のような大学キャンバスの最奥。整備された急斜面をゆっくり登り切ってやっと着く。久しぶりの再会ではあるが、多和さんの風貌は例の如く野を行く仏師のよう。出迎えてくれた姿はさらに冬の厚着で丸々となって、さらに迫力を増している。インタビューは多和氏の研究室でおよそ1時間。そして大学内を案内いただきながら見学。途中多くのどばた出身学生達に声をかけられたり、また発見したりとなんとも懐かしく、いい一日となった。
なんというか、世代的にも同じという親近感もあり、生きること、表現することの関係の視点が共感する。中身に関しては後日「インタビューコーナー」で詳しく。ご期待を!!

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製作中作品の前で(多摩美金属棟にて)

2009年11月24日

●木を植えた人

『木を植えた人』
そのタイトルに引かれて、ささやかな冊子を手にしたのはいつの事だったか。それは19世紀末、フランス南部マノスクで生まれ、生涯その地を離れず、小説、詩、劇、翻訳など広範囲にわたる作品で人々を魅了した、作家ジャン・ジオノの実話ともとれる感動的で荘厳な物語である。
 退職した一人の男が、荒涼とした土地に何十年にも渡って毎日毎日、種を植え続け、その地が信じ難い程の森に変わり、多くの人々に幸せをもたらした、そんな話しなのだが、その感動を伝えるには私はあまりに稚拙で表現の手法を持たない。

巻頭、こんな語りがある。
「ある人は真になみはずれた人物であるかどうかは、好運にも長年にわたってその人の活動を見続けることができた時に、初めてよく解る。もしその人の活動が、類いまれな高潔さによるもので、少しのエゴイズムも含まず、しかもまったく見返りを求めないもの、そしてこの世に何かを残していくものであることは確かなならば、あなたはまちがいなく忘れがたい人物の前にいるのである。」と。

 私はこの話しを読み終えた時、ある作家を想像した。私にとって忘れ得ぬその作家、小林 潔史は若くしてこの世を去ったのだが、彼は将に日々、自分の中の宇宙たる芽を形にしていった。休まず弛まず心に湧きい出るイメージを大地にも似たる球体に乗せて。その数およそ6000。
膨大な数の、小さな小さな夢のような命の種は、風を受け光を浴びてひたすら宇宙へ広がる森となった。
今もなお、こうありたい、と願える、そんな忘れ得ぬ作家である。

カタログ  
KIYOSI KOBAYASI
WORKS
小林 潔史

1989-1994
『光のかたちを求めて』

より

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2009年06月24日

●それぞれの道

予備校で彫刻を学び、大学も彫刻科に籍を置きながらも皆が皆そのまま彫刻の道を歩む訳ではない。やりたい事も見つからずに4年間を過ごす総合大学の学生が多数である現実を考えれば、美大での方向転換はその意味でも珍しいことではない。
そんな訳で仕事がら卒業生と出会う事が多々あるのだが、「元気〜!!今なにしてるの?」の問いに、彫刻とは縁のない就職先を告げられてびっくりすることがある。「道」の可能性は将に限りないのだ。
 すいどーばたから多摩美の彫刻、そして大学院は絵画学科へと進み作家活動をしている若きアーティスト、戸谷森 「it's like this, it's like that」の個展に行った。「藪に棚」「藪に入る」などのタイトルの作品数点でのシンプルな構成だ。空間の奥行き、そしてこの重量感、記憶を探り出すような印象はやはり彫刻的ではあると一人合点。友人である同級の彫刻家二人と共同アトリエだという。血筋も環境も彫刻の彼の展開を見守りたい。
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2009年01月14日

●作家の朝2

すいどーばたでは多くの作家、美大生が指導にあたっている。その他、教務や事務の方の中にも熱心に作家活動をしている人達がいる。つまり学院そもものが美術のプロ集団であり多士済々である。先日、国立の画廊で開催している浅見千鶴さんの個展へ顔を出した。画廊の1階と2階全室を使用して,大作である100号サイズ作品数点を中心に15点程の作品による構成。いつもながらのダイナミックな筆致による生命観溢れる作品だ。この小さな身体でどうやって描いているのかといつも不思議なギャップを覚える。本人の説明によれば、狭い和室をアトリエに家族の苦情も顧みず一心不乱の様態だという。絵の具の臭いもさることながら、画布と格闘する形相にこそ本人の「絵で生きる」ことの様が想像できて凄まじい。話しの内容からも「逝ってしまう」程の集中力の中から、ある直感を持って目の前に立ち現れる瞬間を留め置くのだろう。絵具の積み重ねと削ぎの、その途方も無い行為からどれだけの女神が現れて来るというのだろう。一方で私としてはひょっと力の抜けたにこやかな浅見さんも大好きなのだが・・・。百鬼夜行、夜な夜な油をすするこわ〜いお姉さんには、どうかどうかならないで下さいね。もうじき春もやってきますから。
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2009年01月11日

●作家の朝

年が明け、賀状代わりの展覧会の案内状が沢山届く。中には年をまたいでの発表もある。
ここ数年はバブリーな世界経済にあって日本の画廊の世界進出も多く、活況を呈している。経済大国として台頭してきた中国の影響も大きい。私の過去の海外生活でも、こうした経済とアートの密接な関係を物語る現場を多く体験した。「アート市場」と言われるように経済原理はアートとてもちろん無縁ではない。ただ、アートそのものは既成価値観への挑戦であり、純粋に自己探求への手法であり、また、本来的には現実社会への革命的力を持った人間の表現である。ならば、作家は経済論理に翻弄され飲み込まれ消えて行く危機感に敏感でなければならない。
「成功が人を幸せにするのではなく、幸せが人を成功に導く。」
これはある脳科学者の言葉であるが、目の前の時流に乗ろうとするあまり、自己の本質さえ見失う。どの時代にもあることとて、その中に浸かっている当人が気づくことは至難の技である。
作家は常に新しい朝をむかえる。それが自分をも社会をも見極める一日の始まりの儀式なのだ。
彫刻科スタッフ、吉田朗の個展が年をまたぎ開催されている。絶好調とも言えるニッポン現代アート市場の広がり、一方で陰りを見せた世界経済。そうした潮流の中「仏間でクリスマス」と題し、痛烈な社会批判をユーモアで包みながら、自身とアートと市場とを冷静に見つめ熱き闘いを継続している。彼はどんな年の朝を迎えたのであろうか。次にはインタビューを交えて紹介したい。
 
 話は違うがその彼が結婚をした。
 この幸せが彼を成功へと導くのか?自問自答も込めて。
 
いずれにしろ、めでたい朝である。
おめでとう!
 

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2008年11月18日

●霞を食う男

彼はいつも颯爽としていて、何事にも取り乱すということも無く、そしてあくせくせず、穏やかだ。勿論、結婚していて子供も大きいのだが、そんな妙な生活感もない。私からすると「霞を食って生きている」類いの人種の一人だ。
 彼はリトグラフの「刷り師」。もう20年来の友人である。刷り一筋、これ一本。緑豊かで閑静な住宅地の自宅の工房で黙々と刷る。刷るものも面白い。彼は画廊を回り、あるいは作家と交流し、琴線に触れた作家とコラボレーションする。作家決定の基準は様々なのかもしれない。私がその一人であることを考えれば頷ける。作家の中にはリトグラフは勿論、版画など一度も経験の無い作家もいて、とんでもない版を持って来る、普通なら「マジ切れ」の輩もいるのだが、彼はそうした作家の「難問」にも立ち向かう。こうした作家の中からメジャーになって行く作家も登場するのだが、大概は画廊が傲慢不遜にこうした作家を抱え込み不自由にしていく。彼の作家発掘はその意味でも個性的。

今日もきっと黙々とやっているに違いない。
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2008年10月26日

●桂さん

先日、舟越桂さんが来た。言わずと知れたあの「舟越桂」氏である。つい先頃まで開催されていた東京都庭園美術館「船越桂 夏の邸宅」での内覧会でお会いして以来である。実は船越氏とは長い付き合いになる。お父さんである船越保武氏は学生時代、芸大ラグビー部の顧問で、桂さんも造形大学のラグビー部繋がりで親しくさせて頂いた。大学を出て以後、私がベルリンへ留学していた時も訪ねて来ていただきお会いしている。つまりは美術以前の体育会系的繋がりなのである。父上である保武氏は亡くなられたが、毎年12月には舟越先生に因んだ「船越杯」というOB戦があり、私は今でも年に一度のこの大会で「才能が無ければ体力だぁー」を実践しているのである。
 いかん、そんな話ではない。話しを戻そう・・・。
本来であれば予備校での講演会はしない桂さん(そうじゃないと止めどなく依頼が来ちゃいますからね・・)。そうとなれば、そう、この「濃い」関係を超最大限に使いこなし、若き彫刻家志望学生の為に登場していただいたという訳です。講演会というよりは、何かぶらっと来て話して行った、そんなコンセプトとアプローチで。

 柔らかな語り口、言葉を心の奥から探し出すように、実に丁寧に自作について語って頂いた。後半はこれも私の友人である造形大教授の三木俊治氏と作家対談。学生の質問も加わって本当に和やかで楽しい時間となった。
 静謐な作品が生み出される時間や現場が想像できて、学生も十二分に満足したようである。
 桂さん、どうもありがとうございました。

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修了後、パチ!!(中)船越氏(右)三木氏

2008年08月19日

●動き出す

[引込線」という展覧会が所沢にある西武鉄道の旧車両工場にて始まる。「所沢ビエンナーレ・プレ展」と位置づけられたこのプロジェクトは,戸谷成雄、遠藤利克、山本糾等70年代後半から日本の美術を牽引してきた作家達と若手のアーティスト、そして批評家、学者、思想家、美術教師、美術館員といった美術を構成する全ての人に参加してもらうというものである。コンセプチュアルアート、インスタレーション、ミニマルアート、モノ派といった言わば静謐な思考と精神を伴った表現時代を経て来たアーティストの現状アートへの挑戦の様相でもある。「オヤジだってもう黙っちゃいられねぇ!」という雄叫びとパワーが感じられて同世代としては心地良い。
当面、所沢在住作家を中心にとその結束の固さは感じるが、酒を飲み過ぎての強烈な酩酊論議をもまた想像してしまうのも同時代を生きて来た者のこれも過ぎたるイメージか。ともあれ「美術思想とは表面から闇に向かって垂直におりて行くパースペクティヴを獲得する『知』であり、取り戻すべきは闇を含めた存在の全体性の回復である」のメセージに託された活動の行方に注目である。www.tokorozawa-biennial.com

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